関ヶ原から美濃へ 1

shorou

2018年11月28日 21:22

2018.11.22

夜から車中泊を含め二泊で関ヶ原、美濃地方へ行きました。


キャンプ出撃も検討しましたが三連休とあって予約サイトは何処も一杯です。
フリーサイトも混んでいそうです。 

関ヶ原には以前からぜひ一度訪れてみたいと思っていた所です。

22日仕事を終えてから荷台のベットメークを済ませ、燃料満タン、トリップメーターを0.0にして

19時半出発です。

東名高速を西へ走ります。

足柄SAで腹ごしらえ。


五目タンメン

と 餃子

結構濃厚な味で脂っこく、食べた時間も遅かったので暫く胃もたれしてしまいました。 (+_+)


新東名に入りさらに西へ西へと、

名古屋を過ぎ名神高速へ。今夜のお宿を探します。
ここまで来ていれば 関ヶ原 まではあと少しです。

尾張一宮 PA に車を停めます。

もう少し先のPAまで行くことも考えましたが、あまり近づきすぎても明朝時間余りになってしまいそうなのでこちらで一泊とします。

何だかんだしているうちに時計を見ると オーッ 02:00を回っています。
明日に備えて寝ることにします。

       


朝です。
外はすっかり陽が昇って明るくなっています。

昨夜、宵っ張りをしたものですっかり寝坊してしまいました。

外に出ると冷たい風が心地よく全身に吹きつけます。

身も心もシャッキとする感じです。

多くのキャンピングカー、車中泊の車が停まっています。

昨夜のうちにコンビニで買っておいたサンドイッチを運転席に座って頂きます。


此処のPAには スタバもファミマもありました。
事前の買い出しは要りませんでしたね。 (^.^) スタバで温かい物食べればよかった (^o^)


出発です。 
9時を過ぎてしまっています。

予定より一時間以上押してしまいました。

本線に出ると  

ゲゲッ

渋滞です。 やはり昨夜のうちにもう少し先まで行っておけばよかった。

やがて渋滞も解消してくれました。

関ヶ原ICで下りると目的地 関ヶ原駅観光交流館 まではすぐそこです。

さあ やって来ました。 いざ!関ヶ原 です。

天気は曇り、時々雨が混じります。 寒いです。

駅前の観光案内所でパンフレットなど頂いて散策の準備に入ります。
そこでボランティアガイドの情報を得ます。

関ヶ原歴史民俗資料館まで行きます。

資料館の駐車場の一角のこちらがガイドさんの詰所になっています。

一回1.500円で時間無制限で(今日は空いているので無制限です。)一緒に車で移動しながらガイドをしてもらえます。

 
”よろしくお願いします。”


まずは資料館で関ヶ原の合戦の概要の説明を受けます。

なぜ、壬申の乱や関ヶ原のような天下分け目の合戦がこの地で起こったのか・・・・ など興味深い話が聞けました。

さあ車に乗って関ヶ原合戦歴史散策開始です。
散策場所の近くには大体無料の駐車場があります。
乗り継ぎ乗り継ぎまわって行きます。

初めに行ったのがこちら。 資料館から一番近い所ということで・・・ 

東軍 細川忠興 の陣跡
かの明智光秀の娘 細川ガラシャの旦那さんですね。

黒田長政、竹中重門の陣跡も見えますね。



関ヶ原合戦 決戦の地です。

テレビや写真でおなじみの構図ですね。

慶長五年九月十五日 天下分け目の決戦がまさにここで始まりました。

三成の陣跡へ。


馬坊柵で堅固に備えられていたようですね。

紅葉が綺麗です。


陣跡からは決戦の地が一望できます。

遠くに松尾山も見て取れます。


ちょうど霧が晴れてきました。

決戦当日もこんな天気だったのかな。

三成の陣跡石碑に合掌。

関ヶ原人気投票NO1 はダントツ 石田三成 だそうです。
ちなみにNO 2 は 大谷吉嗣

西軍人気は不動のようです。

かく言う私も西軍贔屓 三成派 です。 (^_-)
三成 何も悪いことしてないのにね。 
豊臣家存続のためにひたすら忠義を尽くしただけなのにね。
原理主義者で官僚的な仕事は能力があったのに、根回しとか、調略とか、人が絡む事は下手だったのかな。
大義は完全に三成ですよね。

敗戦後、斬首、三条河原さらし首は無いよね。 
まあ、古今東西、”歴史は勝者によって書かれる” ことなので仕方ないですよね。

三成が現れました。

この人さっき役所の前歩いていたな。 (^o^)
一緒に記念撮影してもらいました。

町中を散策

ほとんど人影はありません。


首塚へ


紅葉が綺麗に色づいています。


合戦では8.000人とも言われる多くの人が死にました。

死者の身元確認の為の首実検が終わった後に首はここに埋められたようです。

合掌

胴体はここには収まらずに別の場所に埋められたそうです。
(鉄道の工事の時に多数の人骨が出て来たそうです。)

合戦が風化しないようにと地元の有志がここを守っているそうです。
風化どころか年々注目されている様な・・・

死者の大半は日本中から掻き集められた名も無き弱者たちです。
たいした説明も聞かされずに刀や槍など持たされて、時の為政者の権力争いに巻き込まれて最前線で死んでいった弱者たち、その家族たち。 
どんな戦いにも犠牲者がいることを忘れてはいけませんね。


青空が出てきました。

関ヶ原の天気は変わりやすいのです。

伊勢街道です。

島津の退き口  家康本陣を突破した島津退がここを通りむけって行ったのでしょうか。
ウーン 感慨無量。


神明神社

島津義弘の陣跡です。

多くの石碑が建っています。

此処に限らず、島津の遺跡は人の手が入って綺麗に整備・管理が行き届いています。

毎年鹿児島からいろいろな名目の団体がこの地を訪れるそうです。
関ヶ原から鹿児島まで踏破する催しもあるようです。


次は車を走らせて 大谷吉嗣 の陣跡へ

戦国ロードの道端に車を停めて山道を登って行きます。
険しい山間にあります。


松尾山の小早川秀秋の陣に向かって陣立てをしたそうです。

吉嗣は事前に小早川の裏切りを想定していたようです。



陣跡から少し離れた所まで歩きます。

忠義の武将、大谷刑部吉嗣のお墓です。

小早川秀秋の裏切りにで”もはやこれまで”と悟った吉嗣が自刃した場所です。
隣には最後まで吉嗣に仕えた 湯浅五助の墓です。

三成に家康討伐の挙兵を聞かされて、初めは反対をしたものの最後は三成への友情を通して勝ち目のないと解っていた戦いに手を貸すんですね。

吉嗣の首を自分の命と引き換えに隠し通した湯浅五助

手柄より五助との約束を守り、吉嗣への想いを通した徳川方の藤堂高刑

数々の美談がありますね  (涙)

山道を下って戦国ロードまで戻ります。
道を隔てたところに

平塚為広 の碑があります。



勉強不足でこの人物は知りませんでした。
大谷吉嗣に仕えた武将で やはり忠義に厚い武将だったようです。

ガイドさん一押しの武将でした。
ちなみに二番は 大谷吉嗣 と言っていました

二人とも裏切りの最前線で散って行った武将です。

辞世の句があります。

”名の為に棄つる命は惜しからじ終なはとまらぬ浮世と思へば”
(名誉の為なら命は惜しくない。人はいつか死ぬのだから。)

ガイドさん、”イイでしょうイイでしょう”と、熱く語っていました。


さあ、時間も1時半です。
ここまでお昼も食べずに回って来ました。

何度か関ヶ原で有名なお蕎麦屋さんに立ち寄りましたが満席でした。
最期にもう一度覗いてみますがやはり満席。
昼飯抜きで最後の見学地へ。
(本来はお昼を挟んだときはガイドさんに昼ご飯をご馳走することになっています。)


島津の退き口  島津豊久 捨て奸(すてがまり) の場所です。

ここもは鹿児島県民にとっては、聖地のようです。


家康本陣を突破の後、伊勢街道を逃げ延びてきた島津隊
義弘を逃げ伸ばすためにしんがりを務める豊久ほか数名この地に胡坐をかいて捨て身で追っ手を迎えます。
井伊直政らに痛手を与え、ここから数キロ逃げ延びるも豊久は命を落とします。

その捨て身の甲斐あって義弘は薩摩まで逃げ延び、島津藩は力を蓄え、後に討幕の中心になっていくんですね。
歴史の皮肉ですね。

詳しくはこちらを

この、丸に十の字のベンチは昨年鹿児島県知事が訪問をして寄贈したものだそうです。


花が絶えないそうです。


何やらドリフターズが盛んに出てきますけど。
我々世代はドリフターズといえば、カトチャン、ケンちゃんに長さん、しか解りません (+_+)



ガイドさんに同行をしてもらいお昼も食べずに約四時間。
関ヶ原を十分に堪能することが出来ました。
自分たちだけでしたらうわべだけチャラーッと見て終わってしまったでしょう。
1500円は安いです。 勉強にもなりました。

ガイドさん、ありがとうございました。


南宮山、松尾山に登れなかったのが多少心残りではありますが
こちらに登るにはかなりの時間と体力が要求されるようです。
機会があれば訪れてみたいですね。
また、壬申の乱をメインに散策するのも興味深いようです。

さあ、時間が相当押してしまいました。
御昼も食べていないので腹ペコです。

もう一か所どうしても今日中に行っておきたいところがあります。

お昼はコンビニで済ませましょう。
おにぎり買って、頬張りながら次の目的地を目指します。

はたして、間に合うのか

つづく









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